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献帝と同じくらいに名君なんだよなぁ
孔明が国奪わなかったのは支える価値のある人間だったんだろうね
劉禅より劉備の晩年が蜀滅亡に大きく関わっているような
最近は極一部の人達の間で劉禅を名君として再評価するみたいな風潮があるようですがまああどう考えても名君でははなく苦労知らずの二代目ボンボンらしい暗君ですよねもし他に有能な兄弟がいたら取って代わられていたでしょうねただ暗君ではあっても暴君ではなかったので民に圧政を敷いたりとか魏の侵攻を受けて死なば諸共一億玉砕的な選択を取らなかった点はある程度評価に値するかと
わかります。劉禅は暴君では無いですが蜀滅亡までの流れを見ても暗君には違いない。動画でも紹介されている陳寿の劉禅評が全てだと思いますね。彼は誰にでも染まる主体性の無い人間だったので優秀な臣下がそばに居ればまさに名君の如き働きをしましたが、その臣下が皆逝き佞臣がそばに付き始めると今までが嘘のような暗愚な君主に様変わりしましたし。
降伏してから異民族襲来し、西晋滅亡まで劉備の血は生きたけど、同じ負けるなら五丈原の戦いの後がベストだったのかな。死んだ家臣の多くは救えた可能性もあったはず。
劉禅は私の心の師匠だ多くの人は負けたくないと抵抗し怒り苦しみに満ちた人生を送っているそんな中で降伏してそれを気にしないことによって人生を楽しめると教えてくれる
劉禅が即位した時にはほぼ詰みの状態だったわな英雄ならば派手に散るべきだけど、民草のためを思ったら、戦わずに穏便に禅譲した方がマシだよ統治者としては、まちがってないのかもな
孔明先生が亡くなった後に、こんな扱いをするなら魏に裏切れば良かったと酔っぱらって愚痴を言った楊儀をしょけい
楊儀を処刑命令をしようとしてたな。
個人的には無理ゲーに疲れた普通の人と思ってます。
この人は産まれた時代が悪かったと感じる、安寧の時代ならいい統治者になれた気はしなくもない
なんだろう、この劉禅のうっかり八兵衛感は。
そもそも天下三分の計に必要な荊州を喪失した時点ですでに詰んでいたと思う
シャムさん?
暗君かと言われたら蜀においては暗君だったけども、色んな意味で毒気がないって感じだよなぁ。神輿の上に乗ってもらうにはとてもよいんだけども担ぎ手が駄目になると自分ではどうしようもない感じ
能力はともかくあそこまで臣下に権限を与えられるあたり度量は父親以上だと思う
自らの才をわきまえ不足する才を有能な臣下で補い、自らの才の無さに嘆いた。だからこそ長きに渡って蜀を存続させられたのかも知れない。支えられてこそ輝く君主だったのだ。そしてそれらが途絶えた時蜀は滅びた。
元々、劉備は凡人です。縁ある仲間あっての成功だったのです。
それと人を見る目にも優れてもいた。だから劉備の配下には曹操よりも優秀な人材が多かった。多かったが故に後に亡くした後が痛かった
陳寿の冷静な評価がすげえ
結局、劉禅という人物は周囲に優秀な人材が多ければよい君主であるし、愚かな人物が集まればそれに染まるという良くも悪くも真っ白な人物だったのではないだろうか。
治世中に董允、費禕、陳祗といった功臣たちが亡くなったのが不運としか言えない人生だな…
むしろ諸葛亮、蒋琬、費禕の三人が実務はとても有能だけど組織構築に失敗してるのが問題だと思う。前述の三人は確かに偉大な行政手腕をもつ宰相だったんだろうけど、後継を育てることに失敗してるし、或いは傑物がトップでないと回らない蜀という国の組織を改編することもできなかった。もっといえばこの三人が凄すぎてそれ基準の能力がないと組織が回らなくなってた。結果的に費禕の死後に政治がgdgdになり、姜維が許可なく漢中の防衛兵力を攻勢に回したりしちゃってるわけで、劉禅の君主としての質以前に蜀という国自体が歪だったんだろうなと思うわ
劉禅も劉璋も益州の民を戦火に巻き込まずに降伏を決断できたため名君でなくとも暗君ではない。それにしても蜀の2代目は暗君扱いされやすい。
劉禅自身は漢王朝への恩義も魏への恨みも無いのに、父親達の大義の戦を引き継がされて、内心では解放されたかったんじゃないかな…
劉備が劉禅を生んだように見えるテロップでした・・・
劉禅が劉備や諸葛亮並みに優秀だとしても戦局覆すの無理だろうし、民を無意味やたらに苦しめたり一族滅ぼされなかっただけでも合格点には十分なのでは人材を見る目はなかったようだけど厳しくしすぎた教育の失敗のような気もする
劉禅は無能でも有能でもない本当の凡人三國無双におけるキャラ設定はある意味正しいのかもしれない
「親が高名」ってのは、政界やスポーツ界なんかも似たような話があるよな。
あいさんそうです、長島さんの息子や野村さんの息子とか(^_^;)
人材が豊富な統一王朝の二代目だったら、間違いなく名君として後世に記憶されたでしょう。夷陵の戦いの惨敗、そして全く功の無いまま徒に国力を費消した北伐の後の蜀を30年保たせたのですから、やはり非凡であると言わざるを得ません。私でしたら、まずプレッシャーから来るストレスから胃腸を害して、とてもそこまで生きられなかったでしょうね😅💧
ありがとうございます
イギリス王に生まれていれば世界征服できた逸材
まあ、ぼんくらではあるけど暴君では決してない。晋の司馬氏や五胡十六国時代の暗君にくらべたら人民に害をなさないだけかなりましだと思う。
むしろ「降伏するから民は助けてね」って現代人の感覚に近いよね、あの時代にしては珍しい
劉璋が民を思って降伏した事について思う事があったのかもしれない
劉禅は幕末の長州藩の殿様だった毛利敬親に似てると思う。長州藩がたまたま賢臣に恵まれて天下を取ったから名君扱いされてるが、この殿様も家臣次第では名君にも暗君にもなった人。要するに自分というものが無い人。
なるほど。
敬親公はそういう賢臣の採用を行い藩政改革を行っているのだからたとえ維新失敗してても名君だと思うよ会津の容保公が敗軍であってもやっぱり名君の穂稀高いでしょ
えなりかずきがコスプレしてるんですか?
アメリカ 魏日本 蜀これくらいの全て含めた国力差があったみたいだから荊州失った時点で無理保だよな。しかも魏はおかしい位に才能が集まってたし
司馬昭と劉禅の宴会でのエピソードは多分劉禅は本気で楽しいと思ってたんじゃないかな蜀の皇帝だった時はあらゆる意味で精神的に雁字搦めになっていたと思うその有象無象のプレッシャーから解放されて気が楽になり司馬昭からの質問に本音が出たと思われる
それな!
晩年の魏や呉の皇帝より全然マシ。
司馬昭が劉禅をみて「こいつは姜維や諸葛亮でも支えるのは無理だわ」ってドン引きしてなかった?
そうしないと下手したら一緒に降った連中と一緒に殺されかねんからな
劉禅は父親の言いつけに忠実だったのでは?
名君ではないけど長年詰んでる蜀を維持した事と被害を最小限に魏に降伏した事と天寿を全うした事はもっと評価されて良いと思う。諸葛亮含め四相を信頼したのもなかなか出来る事じゃないと思うんだけどなぁ。どいつもこいつも忠臣とはいえその気になればあっさり寝首をかける連中だぜ?それにうまく降伏できるってのが立派な才能だと思うんだけどなぁ。三国時代の群雄達でうまく降伏できた奴ってそういなくないか?大国になればそれだけ難しくなるだろうし。しかし安楽公ってこの人にあらゆる意味で本当ぴったりな称号だと思うw
どんな優秀な人材であろうと周りの人により決まる…悲しい運命かな人材選びは大切ってことやね
かつて日本では上杉謙信の戦争の勝率が9割以上なのに対して、信長や家康や秀吉が戦争の勝率が5割チョイしかなかったのは、上杉謙信が優秀だったのは勿論だけどもそれよりも、「自国を護るよりも遠征して侵略する方が遥かに難しい。だけども天下を取るなら遠征をして侵略戦争をしなくてはならない。」という事実がそのまま現れた結果に他ならない。誰も指摘しないけど、そもそも諸葛亮の時代から北伐を一切せずに護りに徹してたら良かったのではないかと思うがどうだろうか?かつて日本の武田信玄が山だらけで貧しい山梨県を当時としては豊かな国に変えた様に、北伐に行く力を国内の開墾や開拓に使っていたら、国も豊かになったと思う。天下を取るなら北伐は避けて通れないけど、僕としては国を維持するだけなら国立を疲弊させる北伐をやめた方が良かったと思う…
流れ者の劉備が蜀を奪って皇帝にまでなれた理由が漢王朝の復興という旗印です。北伐は漢王朝を復活させるのに一番分かりやすい手段でした。それを実行しないのは、選挙で公約を乱発しておいて当選後は全く別の事をやるのと同じなので、信用を失います。もし仮に引き篭もった場合、仰るとおり国力の減衰は防げるでしょうが、蜀漢は流れ者がぶち上げた地方軍閥みたいな扱いになったでしょう。
諸葛亮が死んで、ヒイが殺されて、姜維が鄧艾に負けた時点で蜀は時間の問題だったのでは天才が機能する間は劉禅が乗っかってうまく政治ができる、3人が機能しなくなって凡人になった劉禅が悪くなったというより国としての寿命にも思える
欲や猜疑心だらけの君主よりは圧倒的にマシだったと思う君主が頭良すぎると勾践みたいになりますもんねw全然夫差よりもマシだと思う
魏、呉、そして晋の転落劇、内部抗争を見ていると、阿斗さまが一番ましに思えてくるんだからなあ。諸葛孔明が作り上げた国家機構が優れていたのかもしれないけど。
国家機構に関してはむしろダメダメな気がする。諸葛亮、蒋琬、費禕と有能な政治家が纏めれるうちだけ機能するってことは個人の能力に頼りすぎてるってことだからなあ。
暴君ではないというだけで暗君でいいと思う。
孔明は取って代わらずとも、せめて弟の誰かを擁立すれば良かったのにな
中国史はのちの時代の王朝が書くので、王朝を興した皇帝は、天命がその人に降りたため名君、滅亡時は天命が違う王朝へ行ったため徳がなく暗君になりますね。それが延々と続いている。ですが、三国志の編纂者の陳寿は蜀漢に仕えていた人物であるため、劉禅の評価、つまり自分の仕えていた君主の評価なので、その通りなのだろうね。
パッパが偉大すぎたよね…よしよし
言うほど暗君でもなかったと思える。姜維に取って変わろうとした将の頼みも「鄧艾に対抗できるのは姜維だけだからダメ」って却下したり、なんだかんだで見る目はそれなりにあったと思う。まあ、性格が優し過ぎたのかなてか劉禅も演義被害者の会の一人?
間違いなく被害者。必要以上に叩かれているから。そもそも、劉備や諸葛亮らと比較されてるからそう見えるだけかと。しかも、劉禅以下の君主はこの後の中国でごまんと出てくるという事実…。
40歳になってようやく、「自ら国事を行う」なんて書かれるくらいだから、とても優秀だったとは思わないですが。まあ、蜀漢が滅亡した以上誰かが恨まれ役になるしかないので、それが劉禅と黄皓だったということでしょう。
既に敗戦処理状態の蜀を、諸葛亮をはじめとする名臣のおかげとは言え、長い期間治世を保ち続けた時点で十分名君だと思う。最後の降伏も、臣や民が傷つくことを憂いてだと思うし。もしかしたら劉禅の中では既に諦めていたのかもしれない。それが諸葛亮が亡くなった時か、段谷の大敗の時かは分からないけど。一つ確実に言えるのは、劉禅は乱世の人ではなかったこと。
最後の「蜀が恋しいとは思わない~」のエピソードですが、もし本当なら司馬昭は蜀を滅ぼした翌年に病に倒れ間もなく病死しているので、相手は司馬炎のはず。しかも魏から禅譲を受け皇帝となった後に開かれた宴会の可能性が大。なおさら下手なことは言えない状況。
治世の中なら良い君主になれた可能性がなきにしもあらず だったな
でも蜀は呉よりも国家としては長持ちしていたらしいし、治世の治世の全部が間違っていたとは言えない気がする。ただ、なんというかい、一代で興した会社を2代目がズタボロにする様を見ているようでなんとも…
イッキツ-カンさん確かに日本でも、豊臣家や武田家も二代目で滅んでますよね(^_^;)
歴史にifはないですが、トウ艾に徹底抗戦して欲しかった。剣閣から姜維を呼び戻し挟み撃ちにすれば勝算はあったと思う。住民を戦火に巻き込みたくなかったのかも知れませんが、略奪の可能性もあったわけですし。(実際関羽の子孫は龐徳の子に殺されてる。)劉備や諸葛亮・その他多くの武将が命をかけて建国した国をあっさり捨てるのは悲しすぎる。五男劉シンと同じ意見です。
無理やな。姜維は剣閣で自軍より優勢な鍾会の軍と対峙してた。演義での活躍や成都を落としたことから鄧艾の方が注目されがちだけど、この蜀を滅亡させた魏の攻勢の総司令官は鍾会で、彼が指揮していたのが侵攻軍の本隊。要害の地である剣閣だから劣勢でも支えられたんであって、もし鄧艾の侵攻を防ぐために反転すればまずその時点で鍾会の追撃にあい敗走、仮にうまく後退できて鄧艾は退けられても、今度は鍾会の大軍を要害ではない地で支えなければいけなくなる。諸葛瞻が鄧艾に敗れた時点で軍事的に蜀は詰んでる。
無理なんです・・・諸葛亮の息子に主力軍任せて迎撃、それでも敗北。劉禅に出来るのは「戦力はあるけど降伏するよ。」と、言外に「まだ抵抗しようとすれば出来るけど?」という事実を事実として伝えて降伏するしか出来なかったんですよ。生産能力やらなにやら考えると、完全に詰んでいるんですよ・・・
詰んでる戦争続けでも原爆落とされるみたいな状況になりかねないしな降伏して良かったとか思うよ
皆さん徹底抗戦には否定的な見方をされてますね。私も基本的には「降伏はやむなし」派ですが、実は徹底抗戦が可能であれば、やりようによっては当面の危機を退ける成算はありました。まず鍾会の本軍は剣閣で釘付けになっているうちに兵糧が尽きかけており、あと少し姜維が頑張っていれば撤退せざるを得なかったでしょう。そこで鍾会軍の撤退を見届けた姜維が反転して鄧艾軍を後ろから攻めれば、地の利があるこちらが多勢となり(鄧艾軍は推定3万。姜維軍は4~5万)、孤立した鄧艾は降伏か全滅かの選択を迫られることになります。すなわち、敵地深く進攻した鄧艾軍は「虎穴に入らずんば虎子を得ず」を決行していたわけで、逆から見れば追い詰められていたわけです。それをおくびにも見せずに蜀を降伏に追い込んだ彼は、流石に勝負の何たるかを心得ている。話を戻すと、鍾会が撤退し、姜維軍が反転してくるまでの時間を五十日と仮定すると、その間断固として成都を死守し続けることができれば、その場の危機をしのぐことはできる。ただし条件があります。1)五十日間、兵の士気の保持が可能であること。2)寡兵を指揮して鄧艾の攻撃を防ぐことのできる指揮官の存在。兵糧は40万石(日本の単位で言うと4万石くらい。すなわち4万人が一年間食べていけるだけの兵糧があったということ)城内にあったとされていますからとりあえず心配はない。ですが、上記の2条件は、当時の成都では絶望的だったでしょう。何しろ「最後の希望」として送り出した諸葛瞻が戦死している状態でしたから。城内のほとんどの者は「もう戦えない」と思っていたことでしょうし、主だった者は綿竹で戦死している。指揮を行える将軍がいたかどうかも怪しい状況。上で「徹底抗戦が可能であれば」と書きましたが、それ自体が当時の成都では不可能であった、というのが残念ながら実情だったと思います。それに、もしすべてがうまくいって鄧艾を虜にすることができても、すでに漢中は魏に奪われている状態です。蜀は喉元に剣を突き付けられたに等しく、そこから劣勢を挽回して漢中を取り戻すことも並大抵のことではない。そんなこんなを考え合わせると、やはりあの局面で降伏を選択したことはやむを得なかった、という結論に落ち着くと思います。
晋書の五行伝によると、263年に四川で大地震があった、とあり、これが鄧艾の奇襲で蜀が撃退できなかった1番に理由ではないか、と思います。この年、蜀は景耀から炎興に元号を変えていますが、これは蜀内部のダメージが大きく、劉禅が遊交していたのも、復興のための地元の有力者との交流だった。諸葛センが防衛する拠点に悩んだ、と言うことが根拠です。
一か八かのギャンブル張るやつが誰もおらずじり貧になって終わっていく失敗を恐れるあまり打てる手を打てず滅んだイメージしかないな
君主として暗君だったが、人としては善良だった。というところかな?
姜維もある意味、蜀国内でも孤立していたし諸葛亮の夢を心の支えにしていたのかなー。
正直、劉禅って自身が滅びの原因つくったわけでもないから、晩年の孫権のほうが暗君度は高いよな、トータルで見ると孫権のが全然英雄だけど
諸葛亮が乗っ取っても後継が諸葛センじゃ無理だったろう馬謖にしろ、孔明はよき政治家軍略家であっても良き教育者ではなかったということだろうな。
司馬昭「ああ郤正君、さっきはビックリしたよ、君のご主君はてっきり故郷に帰りたいんじゃないかと思ったんだが、よっぽど、ここが気に入ったんだね、これじゃ成都に戻って民を慰撫してくれってのも逆に不憫かな(ニコニコ)」郤正「…いえそんなことは(アタフタ)‥ちょっと失礼」「‥劉禅様 (ゴニョゴニョ)」司馬昭「(ニヤ)」
劉禅は、無駄に有能な人物を殺さなかっただけいいと思います。スティリコを殺したホノリウスとか中国でも蘭陵王を殺した高緯とか忠実かつ有能な部下を平気で殺す害悪でしかない君主もいますから。どうしたら、そんな残念すぎる暗君が生まれるのか…。
姜維の解説をリクエストします
力も誇りもない平凡な一般人ただ少なくとも悪人ではなかった暴君ではないがやなり暗君の評価は免れないと思う
無駄に粛清したり悪政はしなかったけど、それって劉禅が有能だったと言うより政治に興味が無かっただけとも言える「部下に仕事を任せられる」って意見もあるけど、本人は酒と女に溺れてただけだし「無能な怠け者」って感じがする。本人はやる気も能力もないから他人に丸投げして遊興三昧、これが(名臣が居る間だけ)結果的に上手く行っただけ
蜀復興の旗頭にもなりうる立場だったので、人質になってて阿呆を演じる以外の道は無かったでしょうね。孫呉や西晋の末路を考えると、上手くバランスを取りながら安定して運営したと思います。
因みに劉禅が魏から封ぜられた安楽県は劉備の生まれ故郷である涿県の近くだった。
諸葛瞻も降伏すれば父の故郷である琅邪郡の王にすると言われてたしそういうのを考慮されるのかな
その治世に住んでみたいと思うのが名君の条件だと思う。
もちろん三国志のゲームじゃ劉禅のステータスは高くしてるよ?この子はやればできる子
優れた臣下を見極められる器がある人間が名君として称えられている。その本人自体能力が無くても、人を引き寄せる魅力と信念が大事だったのだろう。劉備亡き蜀にもそれなりの臣下は揃っていたが、それぞれ統制が取れていなく、諸葛亮がいたからこそ蜀であり続けられた。その諸葛亮が亡くなれば…暗君ではないだろうけど仕方ないね。
劉禅のことは劉備の遺言、劉禅が暗愚な君主なら諸葛孔明君が国を奪えばよいと言ったが孔明は実行しなかった。司馬仲達が蜀の臣下で諸葛孔明が魏の臣下であれば魏は簒奪されなかったと思う。
劉禅は劉備の諸葛亮への遺言を聴いたのだろうか?もし聴いていたのなら、その劉備の言葉が劉禅の運命を決定した気がしてならない。
なるほど。鬼太郎さんは良いユーチューバーだと思うからグッドしとくよ! 頑張ってね♪😊
それまで部下に仕事を委任してそれで上手く回っていたのに、そんな人に四十代からハイ親政お願いね、は無茶振り過ぎますね。魏や呉と違い後継者争いによる身内間での内ゲバもなく、諸葛亮をはじめ優秀な臣下がいた事は蜀にとって幸いでしたが、逆にいえばそれが劉禅から次代の君主として切磋琢磨する機会を奪ってしまったのかもしれません。そもそも約200年続いた後漢の皇帝が自らは象徴に徹した所謂人任せの政治なので劉禅はそれに倣っただけとも言えますが。
荊州を関羽が失った時点で無理ゲーだし、仕方ないと思う劉禅擁護派。劉備の遺言通り諸葛亮を重用したのも評価出来る。
大正天皇も先代が優秀すぎて政治やりたいわけでもないのにさぞ苦労したそうな。
別に国が無くなっても民が生き残れればそれで良くない?と俺は思うんだがそんなことに意固地になって張り合って勝ち目のない戦を繰り返して犠牲になるのはいつも弱い民たちなんだよ
純粋過ぎた人間ですなあ。欲が少ないのがせめてもの救いですね。どっかの(呉)君主とは真逆な人生だった。
君主は国のビジョンを立てるのが仕事。言われるがままの劉禅は暗君と呼ばれても仕方がない。
暗君ですね
名君ではないけど、決して暗君ではない、結果的に蜀滅亡時の被害を最小限にとどめる事が出来たわけです、残念ながら蜀の国力では絶対に魏には勝てませんから…リクエストですが、今回の動画でも出た、陳祗が気になります!姜維の唯一の理解者で、国内をしっかり治めた事が胸熱です😆
一回も戦場に出たことがない(流石に長坂はノーカン)のは問題あり…曹丕や曹叡でも安全圏とはいえ出てるのに…
元より戦乱の世には不向きな人間だったのでしょうね。良しに付け悪しきに付け人の言う事を素直に聞く純朴な人物だったとみるべきでしょう。「小人罪無し玉を懐いて罪有り」この言葉こそが劉禅を語るにふさわしいと思えてなりません。
張飛と関羽って言うチート過ぎる武将が強過ぎてなあ、後継者の武将がパッとしなかったよな、張飛、関羽クラスが5人くらいいればなあ
劉備の時代は五虎大将軍がいたけど、劉禅になってからは趙雲しか生きてなかったからなぁ…そりゃ弱くなるよ
実際単発で強かったのは張飛くらいだけどな他は将として優秀だったがまず一騎討ちなんてほぼ無かったからな
劉備治世の蜀は221-223の間だけ。劉禅の治世は40年って考えるとそんなにひどくはないのかな。3594はもはやネタねw
でも223年から諸葛亮、蒋琬、費禕がいなくなる253年の約30年の間、彼は傀儡だったわけで……諸葛亮、蒋琬、費禕「政治はうちらでやるんで陛下はお飾りしててください」劉禅「ア、ハイ」臣下「三人ともいなくなったんで陛下が政治仕切ってください」劉禅「」……46歳になっていきなり国家を担えといわれた劉禅君にちょっと涙した
そういや三國志ゲームでいつだったか忘れたが劉膳のステータスが順に3.5.9.4だった時があったような完全にネタキャラ笑
「人を見る目が無い」と言った孔明先生は馬謖を重用した結果どうなりましかね。劉備の「馬謖を信じてはいけない」という言葉は真実でした。真に人を見る目のあった劉備の遺言に従わなかった結果北伐は失敗。何か凄まじい皮肉を感じます。
生まれる時代、安定した王朝で君主になっていたら、或いは違ったかも?と思わないこともない。ただ主体性がないから、治世を紡ぐのは無理かな?と考えます。
少なくとも北伐の意思は有ったかな、反北伐派は将軍になれなかったわけだし。
ならりゅうしょうは名君ですね「民を苦しめたくない」といって降伏したのですから、りゅうぜんはその次ぐらいの名君なのではないですか
まあ結局魏呉蜀のいずれも息子の時代に滅んでるから暗愚と言うより引き継ぎがうまくいかなかったのよね
暗君とか以前にただの操り人形。
李邈さん圧倒的
まぁ、優秀では無いし名君とはとてもいえないけど暗君とはおもわないなぁ。別に贅沢三昧で国庫を圧迫したわけでなく、残虐な行為をしたわけでもないしね。タイプ的には劉璋みたいな?蜀は、結局こう言う人物を寄せ付けちゃうのかなぁw
やはり蜀は人材が足らんな。
黒ネコ耳宦官キタ━(゚∀゚)━!
暗君てほどじゃないだろ。徳川慶喜と五十歩百歩。
漢の再興を旗印に正義の戦いを大義名分として、有志を利用した親父は、私情で傾国のきっかけを作った大馬鹿ものだからな。それでも勝てないと踏んで早々に降伏したあたり、馬鹿ではないよ。
劉禅より無能や無道な君主って死後にかなり出てくるから暗君と言われると微妙。あと、姜維に「成都に来て政務とってくれ」と頼んでなかったっけ?断られたけど。
他のコメでもあるけど、同時代の比較対象がすごいせいで、相対的に評価は低くなるだけ。ほんとに可もなく不可もなしといったところかも。
劉禅を趙雲が救い出さなかったら蜀はどうなったのだろうか? 趙雲が救い出し劉備に差し出した時、地面にブン投げたのがいけなかったのか・・・。
明や宋の末期の皇帝に比べればまだましなのでは?
献帝と同じくらいに名君なんだよなぁ
孔明が国奪わなかったのは支える価値のある人間だったんだろうね
劉禅より劉備の晩年が蜀滅亡に大きく関わっているような
最近は極一部の人達の間で劉禅を名君として再評価するみたいな風潮があるようですが
まああどう考えても名君でははなく苦労知らずの二代目ボンボンらしい暗君ですよね
もし他に有能な兄弟がいたら取って代わられていたでしょうね
ただ暗君ではあっても暴君ではなかったので民に圧政を敷いたりとか
魏の侵攻を受けて死なば諸共一億玉砕的な選択を取らなかった点はある程度評価に値するかと
わかります。
劉禅は暴君では無いですが蜀滅亡までの流れを見ても暗君には違いない。
動画でも紹介されている陳寿の劉禅評が全てだと思いますね。
彼は誰にでも染まる主体性の無い人間だったので優秀な臣下がそばに居ればまさに名君の如き働きをしましたが、その臣下が皆逝き佞臣がそばに付き始めると今までが嘘のような暗愚な君主に様変わりしましたし。
降伏してから異民族襲来し、西晋滅亡まで劉備の血は生きたけど、同じ負けるなら五丈原の戦いの後がベストだったのかな。
死んだ家臣の多くは救えた可能性もあったはず。
劉禅は私の心の師匠だ
多くの人は負けたくないと抵抗し怒り苦しみに満ちた人生を送っている
そんな中で降伏してそれを気にしないことによって人生を楽しめると教えてくれる
劉禅が即位した時には
ほぼ詰みの状態だったわな
英雄ならば派手に散るべきだけど、民草のためを思ったら、戦わずに穏便に禅譲した方がマシだよ
統治者としては、まちがってないのかもな
孔明先生が亡くなった後に、こんな扱いをするなら魏に裏切れば良かったと酔っぱらって愚痴を言った楊儀をしょけい
楊儀を処刑命令をしようとしてたな。
個人的には無理ゲーに疲れた普通の人と思ってます。
この人は産まれた時代が悪かったと感じる、安寧の時代ならいい統治者になれた気はしなくもない
なんだろう、この劉禅のうっかり八兵衛感は。
そもそも天下三分の計に必要な荊州を喪失した時点ですでに詰んでいたと思う
シャムさん?
暗君かと言われたら蜀においては暗君だったけども、色んな意味で毒気がないって感じだよなぁ。
神輿の上に乗ってもらうにはとてもよいんだけども担ぎ手が駄目になると自分ではどうしようもない感じ
能力はともかくあそこまで臣下に権限を与えられるあたり度量は父親以上だと思う
自らの才をわきまえ不足する才を有能な臣下で補い、自らの才の無さに嘆いた。だからこそ長きに渡って蜀を存続させられたのかも知れない。支えられてこそ輝く君主だったのだ。そしてそれらが途絶えた時蜀は滅びた。
元々、劉備は凡人です。縁ある仲間あっての成功だったのです。
それと人を見る目にも優れてもいた。だから劉備の配下には曹操よりも優秀な人材が多かった。多かったが故に後に亡くした後が痛かった
陳寿の冷静な評価がすげえ
結局、劉禅という人物は周囲に優秀な人材が多ければよい君主であるし、愚かな人物が集まればそれに染まるという良くも悪くも真っ白な人物だったのではないだろうか。
治世中に董允、費禕、陳祗といった功臣たちが亡くなったのが不運としか言えない人生だな…
むしろ諸葛亮、蒋琬、費禕の三人が実務はとても有能だけど組織構築に失敗してるのが問題だと思う。前述の三人は確かに偉大な行政手腕をもつ宰相だったんだろうけど、後継を育てることに失敗してるし、或いは傑物がトップでないと回らない蜀という国の組織を改編することもできなかった。もっといえばこの三人が凄すぎてそれ基準の能力がないと組織が回らなくなってた。結果的に費禕の死後に政治がgdgdになり、姜維が許可なく漢中の防衛兵力を攻勢に回したりしちゃってるわけで、劉禅の君主としての質以前に蜀という国自体が歪だったんだろうなと思うわ
劉禅も劉璋も益州の民を戦火に巻き込まずに降伏を決断できたため
名君でなくとも暗君ではない。
それにしても蜀の2代目は暗君扱いされやすい。
劉禅自身は漢王朝への恩義も魏への恨みも無いのに、父親達の大義の戦を引き継がされて、内心では解放されたかったんじゃないかな…
劉備が劉禅を生んだように見えるテロップでした・・・
劉禅が劉備や諸葛亮並みに優秀だとしても戦局覆すの無理だろうし、民を無意味やたらに苦しめたり一族滅ぼされなかっただけでも合格点には十分なのでは
人材を見る目はなかったようだけど厳しくしすぎた教育の失敗のような気もする
劉禅は無能でも有能でもない本当の凡人
三國無双におけるキャラ設定はある意味正しいのかもしれない
「親が高名」ってのは、政界やスポーツ界なんかも似たような話があるよな。
あいさん
そうです、長島さんの息子や野村さんの息子とか(^_^;)
人材が豊富な統一王朝の二代目だったら、間違いなく名君として後世に記憶されたでしょう。
夷陵の戦いの惨敗、そして全く功の無いまま徒に国力を費消した北伐の後の蜀を30年保たせたのですから、やはり非凡であると言わざるを得ません。
私でしたら、まずプレッシャーから来るストレスから胃腸を害して、とてもそこまで生きられなかったでしょうね😅💧
ありがとうございます
イギリス王に生まれていれば世界征服できた逸材
まあ、ぼんくらではあるけど暴君では決してない。晋の司馬氏や五胡十六国時代の暗君にくらべたら人民に害をなさないだけかなりましだと思う。
むしろ「降伏するから民は助けてね」って現代人の感覚に近いよね、あの時代にしては珍しい
劉璋が民を思って降伏した事について思う事があったのかもしれない
劉禅は幕末の長州藩の殿様だった毛利敬親に似てると思う。
長州藩がたまたま賢臣に恵まれて天下を取ったから名君扱いされてるが、この殿様も家臣次第では名君にも暗君にもなった人。
要するに自分というものが無い人。
なるほど。
敬親公はそういう賢臣の採用を行い
藩政改革を行っているのだから
たとえ維新失敗してても名君だと思うよ
会津の容保公が敗軍であっても
やっぱり名君の穂稀高いでしょ
えなりかずきがコスプレしてるんですか?
アメリカ 魏
日本 蜀
これくらいの全て含めた国力差があったみたいだから荊州失った時点で無理保だよな。
しかも魏はおかしい位に才能が集まってたし
司馬昭と劉禅の宴会でのエピソードは多分劉禅は本気で楽しいと思ってたんじゃないかな
蜀の皇帝だった時はあらゆる意味で精神的に雁字搦めになっていたと思う
その有象無象のプレッシャーから解放されて気が楽になり司馬昭からの質問に本音が出たと思われる
それな!
晩年の魏や呉の皇帝より全然マシ。
司馬昭が劉禅をみて「こいつは姜維や諸葛亮でも支えるのは無理だわ」ってドン引きしてなかった?
そうしないと下手したら一緒に降った連中と一緒に殺されかねんからな
劉禅は父親の言いつけに忠実だったのでは?
名君ではないけど長年詰んでる蜀を維持した事と被害を最小限に魏に降伏した事と天寿を全うした事はもっと評価されて良いと思う。
諸葛亮含め四相を信頼したのもなかなか出来る事じゃないと思うんだけどなぁ。どいつもこいつも忠臣とはいえその気になればあっさり寝首をかける連中だぜ?
それにうまく降伏できるってのが立派な才能だと思うんだけどなぁ。三国時代の群雄達でうまく降伏できた奴ってそういなくないか?大国になればそれだけ難しくなるだろうし。
しかし安楽公ってこの人にあらゆる意味で本当ぴったりな称号だと思うw
どんな優秀な人材であろうと周りの人により決まる…悲しい運命かな
人材選びは大切ってことやね
かつて日本では上杉謙信の戦争の勝率が9割以上なのに対して、信長や家康や秀吉が戦争の勝率が5割チョイしかなかったのは、上杉謙信が優秀だったのは勿論だけどもそれよりも、「自国を護るよりも遠征して侵略する方が遥かに難しい。だけども天下を取るなら遠征をして侵略戦争をしなくてはならない。」という事実がそのまま現れた結果に他ならない。
誰も指摘しないけど、そもそも諸葛亮の時代から北伐を一切せずに護りに徹してたら良かったのではないかと思うがどうだろうか?
かつて日本の武田信玄が山だらけで貧しい山梨県を当時としては豊かな国に変えた様に、北伐に行く力を国内の開墾や開拓に使っていたら、国も豊かになったと思う。天下を取るなら北伐は避けて通れないけど、僕としては国を維持するだけなら国立を疲弊させる北伐をやめた方が良かったと思う…
流れ者の劉備が蜀を奪って皇帝にまでなれた理由が漢王朝の復興という旗印です。
北伐は漢王朝を復活させるのに一番分かりやすい手段でした。それを実行しないのは、選挙で公約を乱発しておいて当選後は全く別の事をやるのと同じなので、信用を失います。
もし仮に引き篭もった場合、仰るとおり国力の減衰は防げるでしょうが、蜀漢は流れ者がぶち上げた地方軍閥みたいな扱いになったでしょう。
諸葛亮が死んで、ヒイが殺されて、姜維が鄧艾に負けた時点で蜀は時間の問題だったのでは
天才が機能する間は劉禅が乗っかってうまく政治ができる、3人が機能しなくなって凡人になった
劉禅が悪くなったというより国としての寿命にも思える
欲や猜疑心だらけの君主よりは圧倒的にマシだったと思う
君主が頭良すぎると勾践みたいになりますもんねw
全然夫差よりもマシだと思う
魏、呉、そして晋の転落劇、内部抗争を見ていると、阿斗さまが一番ましに思えてくるんだからなあ。諸葛孔明が作り上げた国家機構が優れていたのかもしれないけど。
国家機構に関してはむしろダメダメな気がする。諸葛亮、蒋琬、費禕と有能な政治家が纏めれるうちだけ機能するってことは個人の能力に頼りすぎてるってことだからなあ。
暴君ではないというだけで暗君でいいと思う。
孔明は取って代わらずとも、せめて弟の誰かを擁立すれば良かったのにな
中国史はのちの時代の王朝が書くので、王朝を興した皇帝は、天命がその人に降りたため名君、滅亡時は天命が違う王朝へ行ったため徳がなく暗君になりますね。それが延々と続いている。ですが、三国志の編纂者の陳寿は蜀漢に仕えていた人物であるため、劉禅の評価、つまり自分の仕えていた君主の評価なので、その通りなのだろうね。
パッパが偉大すぎたよね…
よしよし
言うほど暗君でもなかったと思える。
姜維に取って変わろうとした将の頼みも「鄧艾に対抗できるのは姜維だけだからダメ」って却下したり、なんだかんだで見る目はそれなりにあったと思う。
まあ、性格が優し過ぎたのかな
てか劉禅も演義被害者の会の一人?
間違いなく被害者。必要以上に叩かれているから。
そもそも、劉備や諸葛亮らと比較されてるからそう見えるだけかと。しかも、劉禅以下の君主はこの後の中国でごまんと出てくるという事実…。
40歳になってようやく、「自ら国事を行う」なんて書かれるくらいだから、とても優秀だったとは思わないですが。
まあ、蜀漢が滅亡した以上誰かが恨まれ役になるしかないので、それが劉禅と黄皓だったということでしょう。
既に敗戦処理状態の蜀を、諸葛亮をはじめとする名臣のおかげとは言え、長い期間治世を保ち続けた時点で十分名君だと思う。
最後の降伏も、臣や民が傷つくことを憂いてだと思うし。
もしかしたら劉禅の中では既に諦めていたのかもしれない。それが諸葛亮が亡くなった時か、段谷の大敗の時かは分からないけど。
一つ確実に言えるのは、劉禅は乱世の人ではなかったこと。
最後の「蜀が恋しいとは思わない~」のエピソードですが、
もし本当なら司馬昭は蜀を滅ぼした翌年に病に倒れ間もなく病死しているので、相手は司馬炎のはず。
しかも魏から禅譲を受け皇帝となった後に開かれた宴会の可能性が大。
なおさら下手なことは言えない状況。
治世の中なら良い君主になれた可能性がなきにしもあらず だったな
でも蜀は呉よりも国家としては長持ちしていたらしいし、治世の治世の全部が間違っていたとは言えない気がする。ただ、なんというかい、一代で興した会社を2代目がズタボロにする様を見ているようでなんとも…
イッキツ-カンさん
確かに日本でも、豊臣家や武田家も
二代目で滅んでますよね(^_^;)
歴史にifはないですが、トウ艾に徹底抗戦して欲しかった。剣閣から姜維を呼び戻し挟み撃ちにすれば勝算はあったと思う。
住民を戦火に巻き込みたくなかったのかも知れませんが、略奪の可能性もあったわけですし。(実際関羽の子孫は龐徳の子に殺されてる。)
劉備や諸葛亮・その他多くの武将が命をかけて建国した国をあっさり捨てるのは悲しすぎる。五男劉シンと同じ意見です。
無理やな。姜維は剣閣で自軍より優勢な鍾会の軍と対峙してた。演義での活躍や成都を落としたことから鄧艾の方が注目されがちだけど、この蜀を滅亡させた魏の攻勢の総司令官は鍾会で、彼が指揮していたのが侵攻軍の本隊。要害の地である剣閣だから劣勢でも支えられたんであって、もし鄧艾の侵攻を防ぐために反転すればまずその時点で鍾会の追撃にあい敗走、仮にうまく後退できて鄧艾は退けられても、今度は鍾会の大軍を要害ではない地で支えなければいけなくなる。諸葛瞻が鄧艾に敗れた時点で軍事的に蜀は詰んでる。
無理なんです・・・諸葛亮の息子に主力軍任せて迎撃、それでも敗北。劉禅に出来るのは「戦力はあるけど降伏するよ。」と、言外に「まだ抵抗しようとすれば出来るけど?」という事実を事実として伝えて降伏するしか出来なかったんですよ。生産能力やらなにやら考えると、完全に詰んでいるんですよ・・・
詰んでる戦争続けでも原爆落とされるみたいな状況になりかねないしな
降伏して良かったとか思うよ
皆さん徹底抗戦には否定的な見方をされてますね。私も基本的には「降伏はやむなし」派ですが、実は徹底抗戦が可能であれば、やりようによっては当面の危機を退ける成算はありました。
まず鍾会の本軍は剣閣で釘付けになっているうちに兵糧が尽きかけており、あと少し姜維が頑張っていれば撤退せざるを得なかったでしょう。そこで鍾会軍の撤退を見届けた姜維が反転して鄧艾軍を後ろから攻めれば、地の利があるこちらが多勢となり(鄧艾軍は推定3万。姜維軍は4~5万)、孤立した鄧艾は降伏か全滅かの選択を迫られることになります。すなわち、敵地深く進攻した鄧艾軍は「虎穴に入らずんば虎子を得ず」を決行していたわけで、逆から見れば追い詰められていたわけです。それをおくびにも見せずに蜀を降伏に追い込んだ彼は、流石に勝負の何たるかを心得ている。
話を戻すと、鍾会が撤退し、姜維軍が反転してくるまでの時間を五十日と仮定すると、その間断固として成都を死守し続けることができれば、その場の危機をしのぐことはできる。ただし条件があります。
1)五十日間、兵の士気の保持が可能であること。
2)寡兵を指揮して鄧艾の攻撃を防ぐことのできる指揮官の存在。
兵糧は40万石(日本の単位で言うと4万石くらい。すなわち4万人が一年間食べていけるだけの兵糧があったということ)城内にあったとされていますからとりあえず心配はない。ですが、上記の2条件は、当時の成都では絶望的だったでしょう。何しろ「最後の希望」として送り出した諸葛瞻が戦死している状態でしたから。城内のほとんどの者は「もう戦えない」と思っていたことでしょうし、主だった者は綿竹で戦死している。指揮を行える将軍がいたかどうかも怪しい状況。上で「徹底抗戦が可能であれば」と書きましたが、それ自体が当時の成都では不可能であった、というのが残念ながら実情だったと思います。
それに、もしすべてがうまくいって鄧艾を虜にすることができても、すでに漢中は魏に奪われている状態です。蜀は喉元に剣を突き付けられたに等しく、そこから劣勢を挽回して漢中を取り戻すことも並大抵のことではない。そんなこんなを考え合わせると、やはりあの局面で降伏を選択したことはやむを得なかった、という結論に落ち着くと思います。
晋書の五行伝によると、263年に四川で大地震があった、とあり、これが鄧艾の奇襲で蜀が撃退できなかった1番に理由ではないか、と思います。
この年、蜀は景耀から炎興に元号を変えていますが、これは蜀内部のダメージが大きく、劉禅が遊交していたのも、復興のための地元の有力者との交流だった。諸葛センが防衛する拠点に悩んだ、と言うことが根拠です。
一か八かのギャンブル張るやつが誰もおらず
じり貧になって終わっていく
失敗を恐れるあまり打てる手を打てず滅んだイメージしかないな
君主として暗君だったが、人としては善良だった。というところかな?
姜維もある意味、蜀国内でも孤立していたし諸葛亮の夢を心の支えにしていたのかなー。
正直、劉禅って自身が滅びの原因つくったわけでもないから、晩年の孫権のほうが暗君度は高いよな、トータルで見ると孫権のが全然英雄だけど
諸葛亮が乗っ取っても後継が諸葛センじゃ無理だったろう
馬謖にしろ、孔明はよき政治家軍略家であっても
良き教育者ではなかったということだろうな。
司馬昭「ああ郤正君、さっきはビックリしたよ、君のご主君はてっきり故郷に帰りたいんじゃないかと思ったんだが、よっぽど、ここが気に入ったんだね、これじゃ成都に戻って民を慰撫してくれってのも逆に不憫かな(ニコニコ)」
郤正「…いえそんなことは(アタフタ)‥ちょっと失礼」「‥劉禅様 (ゴニョゴニョ)」
司馬昭「(ニヤ)」
劉禅は、無駄に有能な人物を殺さなかっただけいいと思います。
スティリコを殺したホノリウスとか中国でも蘭陵王を殺した高緯とか忠実かつ有能な部下を平気で殺す害悪でしかない君主もいますから。
どうしたら、そんな残念すぎる暗君が生まれるのか…。
姜維の解説をリクエストします
力も誇りもない平凡な一般人
ただ少なくとも悪人ではなかった
暴君ではないがやなり暗君の評価は免れないと思う
無駄に粛清したり悪政はしなかったけど、それって劉禅が有能だったと言うより政治に興味が無かっただけとも言える
「部下に仕事を任せられる」って意見もあるけど、本人は酒と女に溺れてただけだし
「無能な怠け者」って感じがする。本人はやる気も能力もないから他人に丸投げして遊興三昧、これが(名臣が居る間だけ)結果的に上手く行っただけ
蜀復興の旗頭にもなりうる立場だったので、人質になってて阿呆を演じる以外の道は無かったでしょうね。
孫呉や西晋の末路を考えると、上手くバランスを取りながら安定して運営したと思います。
因みに劉禅が魏から封ぜられた安楽県は劉備の生まれ故郷である涿県の近くだった。
諸葛瞻も降伏すれば父の故郷である琅邪郡の王にすると言われてたしそういうのを考慮されるのかな
その治世に住んでみたいと思うのが名君の条件だと思う。
もちろん三国志のゲームじゃ劉禅のステータスは高くしてるよ?
この子はやればできる子
優れた臣下を見極められる器がある人間が名君として称えられている。その本人自体能力が無くても、人を引き寄せる魅力と信念が大事だったのだろう。
劉備亡き蜀にもそれなりの臣下は揃っていたが、それぞれ統制が取れていなく、諸葛亮がいたからこそ蜀であり続けられた。その諸葛亮が亡くなれば…暗君ではないだろうけど仕方ないね。
劉禅のことは劉備の遺言、劉禅が暗愚な君主なら諸葛孔明君が国を奪えばよいと言ったが孔明は実行しなかった。司馬仲達が蜀の臣下で諸葛孔明が魏の臣下であれば魏は簒奪されなかったと思う。
劉禅は劉備の諸葛亮への遺言を聴いたのだろうか?
もし聴いていたのなら、その劉備の言葉が劉禅の運命を決定した気がしてならない。
なるほど。鬼太郎さんは良いユーチューバーだと思うからグッドしとくよ! 頑張ってね♪😊
それまで部下に仕事を委任してそれで上手く回っていたのに、そんな人に四十代からハイ親政お願いね、は無茶振り過ぎますね。
魏や呉と違い後継者争いによる身内間での内ゲバもなく、諸葛亮をはじめ優秀な臣下がいた事は蜀にとって幸いでしたが、
逆にいえばそれが劉禅から次代の君主として切磋琢磨する機会を奪ってしまったのかもしれません。
そもそも約200年続いた後漢の皇帝が自らは象徴に徹した所謂人任せの政治なので劉禅はそれに倣っただけとも言えますが。
荊州を関羽が失った時点で無理ゲーだし、仕方ないと思う劉禅擁護派。劉備の遺言通り諸葛亮を重用したのも評価出来る。
大正天皇も先代が優秀すぎて政治やりたいわけでもないのにさぞ苦労したそうな。
別に国が無くなっても民が生き残れればそれで良くない?と俺は思うんだが
そんなことに意固地になって張り合って勝ち目のない戦を繰り返して
犠牲になるのはいつも弱い民たちなんだよ
純粋過ぎた人間ですなあ。
欲が少ないのがせめてもの救いですね。
どっかの(呉)君主とは真逆な人生だった。
君主は国のビジョンを立てるのが仕事。
言われるがままの劉禅は暗君と呼ばれても仕方がない。
暗君ですね
名君ではないけど、決して暗君ではない、結果的に蜀滅亡時の被害を最小限にとどめる事が出来たわけです、残念ながら蜀の国力では絶対に魏には勝てませんから…
リクエストですが、今回の動画でも出た、陳祗が気になります!姜維の唯一の理解者で、国内をしっかり治めた事が胸熱です😆
一回も戦場に出たことがない(流石に長坂はノーカン)のは問題あり…
曹丕や曹叡でも安全圏とはいえ出てるのに…
元より戦乱の世には不向きな人間だったのでしょうね。良しに付け悪しきに付け人の言う事を素直に聞く純朴な人物だったとみるべきでしょう。「小人罪無し玉を懐いて罪有り」この言葉こそが劉禅を語るにふさわしいと思えてなりません。
張飛と関羽って言うチート過ぎる武将が強過ぎてなあ、後継者の武将がパッとしなかったよな、張飛、関羽クラスが5人くらいいればなあ
劉備の時代は五虎大将軍がいたけど、劉禅になってからは趙雲しか生きてなかったからなぁ…
そりゃ弱くなるよ
実際単発で強かったのは張飛くらいだけどな
他は将として優秀だったが
まず一騎討ちなんてほぼ無かったからな
劉備治世の蜀は221-223の間だけ。
劉禅の治世は40年って考えるとそんなにひどくはないのかな。
3594はもはやネタねw
でも223年から諸葛亮、蒋琬、費禕がいなくなる253年の約30年の間、彼は傀儡だったわけで……
諸葛亮、蒋琬、費禕「政治はうちらでやるんで陛下はお飾りしててください」
劉禅「ア、ハイ」
臣下「三人ともいなくなったんで陛下が政治仕切ってください」
劉禅「」
……46歳になっていきなり国家を担えといわれた劉禅君にちょっと涙した
そういや三國志ゲームでいつだったか忘れたが劉膳のステータスが
順に3.5.9.4だった時があったような
完全にネタキャラ笑
「人を見る目が無い」と言った孔明先生は馬謖を重用した結果どうなりましかね。
劉備の「馬謖を信じてはいけない」という言葉は真実でした。
真に人を見る目のあった劉備の遺言に従わなかった結果北伐は失敗。
何か凄まじい皮肉を感じます。
生まれる時代、安定した王朝で君主になっていたら、或いは違ったかも?と思わないこともない。ただ主体性がないから、治世を紡ぐのは無理かな?と考えます。
少なくとも北伐の意思は有ったかな、反北伐派は将軍になれなかったわけだし。
ならりゅうしょうは名君ですね「民を苦しめたくない」といって降伏したのですから、
りゅうぜんはその次ぐらいの名君なのではないですか
まあ結局魏呉蜀のいずれも息子の時代に滅んでるから暗愚と言うより引き継ぎがうまくいかなかったのよね
暗君とか以前にただの操り人形。
李邈さん圧倒的
まぁ、優秀では無いし名君とはとてもいえないけど
暗君とはおもわないなぁ。別に贅沢三昧で国庫を圧迫したわけでなく、
残虐な行為をしたわけでもないしね。
タイプ的には劉璋みたいな?
蜀は、結局こう言う人物を寄せ付けちゃうのかなぁw
やはり蜀は人材が足らんな。
黒ネコ耳宦官キタ━(゚∀゚)━!
暗君てほどじゃないだろ。徳川慶喜と五十歩百歩。
漢の再興を旗印に正義の戦いを大義名分として、有志を利用した親父は、私情で傾国のきっかけを作った大馬鹿ものだからな。それでも勝てないと踏んで早々に降伏したあたり、馬鹿ではないよ。
劉禅より無能や無道な君主って死後にかなり出てくるから暗君と言われると微妙。あと、姜維に「成都に来て政務とってくれ」と頼んでなかったっけ?断られたけど。
他のコメでもあるけど、同時代の比較対象がすごいせいで、相対的に評価は低くなるだけ。
ほんとに可もなく不可もなしといったところかも。
劉禅を趙雲が救い出さなかったら蜀はどうなったのだろうか? 趙雲が救い出し劉備に差し出した時、地面にブン投げたのがいけなかったのか・・・。
明や宋の末期の皇帝に比べればまだましなのでは?